ツアーの体験談
海の向こうから  寺内 希望
2003年5月17日
2003年8月6日
2003年8月7日
2003年8月10日
2003年8月13日
2003年8月15日
2003年8月20日
2003年8月26日
2003年9月1日
「祈り」を込めて  森泉 由美子
■ 無力を感じた日々
■ 慰められて
■ 聖地巡礼の旅
■ 子ども達との出会い
■ 言葉はなくてもいい
■ 幸せって何?
■ 帰国して
神様がくれた生き方  沢井 裕
■ 旅は出会い
■ レインボー・ホームの子ども達
■ 人生の目的
虹を追いかけて

虹は天からのメッセージ
人間と人間の心の架け橋
虹を追いかけて
どこまでも走っていった幼かったあの頃
虹にたどり着くことはできなかったけれど
やっと人の生命にたどり着くことができた
生命、それは愛
   〜生命の隣で〜

『インド心の旅』が続いて18年になる。この旅は意識教育研究所の波場武嗣所長が提案して、運営のいっさいを私に任せてくださったことから始まる。
延べにしてもう二千人以上の方が、『インド心の旅』に参加されたが、思い起こせばたくさんのドラマがあった。参加してくださった人のほとんどが、「何のために私はこの世に生まれてきたのだろう」と、問いかけていたように思えた。
先日(2003年9月5日)、マザー・テレサの命日にインドのコルカタで、マザーのお墓に伏しながら祈っていた。六周忌ということもあって、お墓を訪れる人達でとてもにぎやかだった。しかし、自分にとっては静かな時間だった。
ふと、目を開けるといつも見慣れているはずのマザー・テレサのお墓に刻まれた文字が、ことさら新鮮に映った。
 「私があなたを愛したと同じように、あなた達はお互いに愛し合って生きて行きなさい」
マザー・テレサに導かれたかのように、できたレインボー・ホームであるが、現在インドのコルカタに30人の親のない子ども達が暮らしている。
残りどれだけの人生かわからないが、私はこれからもたどり着くことが出来ない虹を追いかけて、生きていきたい。
これから紹介する2人も、虹を追いかけて、『インド心の旅』に参加した人である。
海の向こうから  寺内 希望
■2003年5月17日
今、成田空港で飛行機待ちをしているところです。すごいよ、成田空港。インターネット、無料でやらせてくれるの!何だかこれだけで感激している自分が不思議な気がして。

母さん、父さんごめんね。
 「世界を回る」って、かっこいいこと言って、家を出たけど、成田空港の手続きだけで疲れてしまって、のぞみは少しビビっちゃっているよ。こんなんで、インドまでたどり着けるのかな。
 こんな日が来てしまったんだね。今まで父さん母さんにずっと守られて生きてきたよね。ちょっとの旅はあったけど、長い間こんなに離れたこともなかったし、全然一人で暮らしたことなんかないのぞみだったから、これからやっていけるかな。三ヶ月後に、必ずパリで会おうね。

のぞみは知っているよ。何日も前から、自分の知らないところで、私のために旅の準備をしてくれて。旅の前に父さんと、母さんが毎晩、私のことを心配して、話していたことも。
本当に辛かったら、母さんのところに帰るから。そう思って航空券の帰りの日付け、出発の五日後にしたんだ。だって私の帰るところは、母さん、父さんのところだから。ありがとう。

もう出発時間です。搭乗口に走って行かなくっちゃ。行ってきます。


■2003年8月6日
さっき、電話でお父さんとお母さんの声を聞くことが出来たから、メールを書く必要もないんだけど、声を聞いただけで会いたくなったよ。
数日前タイ式マッサージの免許をって、嬉しくって電話したかったんだ。今まで、あまりにも緊張していて、そのはずみで「日本に帰りたい」ってウダウダ言ってごめんね。でも自分が決めた道だから、がんばるよ。タイ式マッサージの免許証、送ったよ。届いたかな。

今日、バンコクで無事に五十嵐さんと会えたよ。五十嵐さんは自分のお仕事で、あちこち忙しく旅行代理店やらインドに持っていくパソコンのことで走りまくっていたけど、まいっちゃった。舟に乗ったり、バスに乗ったり。
急ぎ足で自分はついていったんだけど、お父さんのことを思い出しちゃった。

お父さんも足早にいろんなところに、のぞみを連れて行ってくれたよね。小さい私はついていくことにせいいっぱいだったけど。
ありがとう、お父さん。


■2003年8月7日
昨日は、マザー・テレサのお墓参りをしてきました。インドはやはり、想像どおりというか、想像以上にすごいね。でもタイでの経験があって、ワン・クッションあったのが良かったと思う。すごいよ、この国。
日本から直接インドに入っていたら、とてもじゃないけど、のぞみの心はもたなかったかもしれない。

母さんが用意してくれた荷物、昨日の夜に五十嵐さんから受け取りました。本当に必要なもの完璧に揃えてあったよ。ありがとう。特に短パンやサンダルは、重宝しています。
そして、何よりも手紙ありがとう。読みながら、大泣きしてしまいました。私が一人でこのようにして出てこられたのも、本当にお父さん、お母さん、周りの人達のおかげなのだと感じました。旅の最中は、一人になること覚悟していたけど、でもね、この頃一人ではないんだと思えてきたよ。
お母さんが東京でレインボーの事務所に行って、私のことを心配してくれて、いろんなことインドの事を聞きに行ってくれたこと、五十嵐さんに聞いたよ。

本当にいつもいつも心配かけさせてごめんね。私も一人で不安だけど、お母さんもそうだったんだ。私だけが心配で不安なんじゃなくて、周りの人もみんな心配してくれているんだと思ったよ。
まだまだ心配させてしまうこと多いと思うけど、それ以上にいろんな国の素晴らしさ、面白さなどみんなに伝えていけたらいいなと思ったよ。
『インド心の旅』に参加して、いろんな話を聞くことが出来て、すごく考えさせられるよ。確かに、個人でマザー・テレサのボランティアに参加している人もいるけど、わからない部分がいっぱいだから、絶対に五十嵐さんの説明は必要だと思った。
モティ・ジルのマザーの活動の第一歩を始めた場所にも連れて行ってもらったんだよ。今回この旅に参加できて本当に良かった。インドに来て二日目にして、そう思えます。

■2003年8月10日
インドに来て四日が経ちました。

少しずつホテルの周辺の道も覚えたり、何とか慣れてきたけど、やはりインドはすごい国だね。
すごいのは全て…。まず、市内までの車の排気ガスのすごさ、そして人が多すぎる…。もう、街に人が溢れかえっているんだ。それも、ボーっと立っている人が多くて、何をやっているのだろうと、思ってしまう。

それと、次の日の朝起きてびっくりしたのが、路上に寝ている人が多すぎる…。百メートルくらいの間に、軽く三十人はいると思う。
だから、のぞみは歩道を歩くにも歩けなくて、車道を歩いたよ。薄い布を敷いているのみで、寝てるんだ。最初は本当に怖かったよ。路上の人はみんな色黒すぎだし、生きてるのか死んでいるのかもわからず、ビクビクでした。

そして、路上のどこでもシャワー浴びてる。道ばたの井戸の出るようなところで、普通に石鹸まみれで体や頭を洗っている人がたくさん。一回に十人くらいは同じところでお風呂タイムだよ。
あと、いちばんきついのがインドの男の人達、どこでもトイレを済ませてしまっている…。道の脇はほとんどがトイレ。臭いしこれだけは、どうしても慣れないね。

食べ物は、全然、大丈夫。インド料理以外の中華やサンドウィッチ屋さんに、みんなで行くから、食べ物は心配要りません。そうそう、ここはやはりナンがすっごくおいしい。やはり焼き方も本場だし、存分に食べておこうと思ったよ。


■2003年8月13日
今まで、のぞみがボランティアに行ったのは、例の『死を待つ人の家』と、二つの幼児の障害者施設です。

『死を待つ人の家』は確かに衝撃だったよ。こんな場所があるのかと思うくらいだったよ。そこでは、その患者さんの洋服の洗濯や、食事のお世話などしました。
そこにいる患者さんの姿にも衝撃を受けるけど、それよりも二時間洗濯していた間に、二人が亡くなったのを目にしてしまった。これにはちょっとびっくり。

人の亡くなったのを見ると、小さいときに、お祖父ちゃんが亡くなったときのことを思い出して、すごく辛いんだ。のぞみが人の死に慣れていないからかもしれないけど、私には、この施設でのボランティアはちょっときついなと感じたよ。

『死を待つ人の家』とは違って子どもの施設は、中もきれいだしベッドもちゃんとしていて、すごくすてきな施設に思えたよ。
そこでは、主にトイレ・入浴・着替え・子どもの遊び相手・ベッド・メイキングなど何でも仕事があって、できるだけ私は動いて、働いた。
やはり、トイレの世話はたいへんで、子ども達のおしっこやうんちまみれで、いっぱいっぱいだったよ。それだけでも、日本の同じような障害者の施設で、ずーっと働いてきたお父さん、お母さんのたいへんさが、やっと理解できたような気がしたよ。
ボランティア活動は午前中だけにして、その後は五十嵐さん達と『レインボー・ホーム』で、子ども達と遊んだりしています。

■2003年8月15日
今日は、インドの独立記念日で祝日だから、『レインボー・ホーム』の子ども達と一緒に、動物園に遠足に行って、本当に充実している。『レインボー・ホーム』の子ども達は二才から十才まで、本当にかわいいよ。

海外では言葉が通じないだけに、万国共通の特技があるとすごく役立つね。歌や踊りなど。
私は、器械体操をやっていたから、片手側転をして見せたら、いきなり男の子達の人気者になって、会うたびにやって見せてとせがまれるようになってしまったよ。
女の子には、ダンスや縄跳び。珍しい『かえし跳び』をやってみせたら、これも、大いに受けて何人もの子が教えてほしいと真剣に言ってきたよ。なんか、色々やっていて良かったなと思えたよ。

でも、確かに反応は良かったんだけど、子ども達が真似し始めて、大変なことに…。みんな出来もしないのに、無理やりやろうとするので、危なくて大変でした。子ども達と遊ぶのも難しいもんだね。


■2003年8月20日
慣れてきたら、この街も過ごしやすくなってきたし、インドもなかなかいいんじゃないかと思えてきたよ。
明日からは、いよいよ聖地巡礼の旅。夜行列車に乗って、ベナレスに行きます。コルカタだけじゃなく他のインドも見てくるね。どんなかな、楽しみです。

■2003年8月26日
巡礼の旅から、無事コルカタに戻ってきたよ。巡礼の旅の間は、メールを打つことが出来なかったから、いろいろ見たことや感じたことを話せなかったね。ごめんね。
お母さんは、のぞみがこうしてメールを打つのが大変なんじゃないかって言うけど、全然。のぞみはお母さん達に、この旅のことを出来るだけたくさん話ししたいんだ。だから、時間はかかるけどちっとも、苦じゃないよ。それはのぞみの幸せな時間だよ。

聖地巡礼の旅では、五十嵐さんにいろんな話が聞けて良かったよ。のぞみが通っていたのは仏教系の学校だったから、お釈迦様の話なんかもよく聞いていたんだけど、今回実際にその場所に行ってみて、納得って思うことが多かったよ。部分部分で聞いた話が、一つにつながったって感じ。
でもね、もっと仏教のこと、勉強してから行けば良かったと思うよ。せっかく素晴らしいものを見ているのにもったいなかったな。でも、行って良かった。お母さんやお父さんと一緒に行きたかったな。

もうすぐ、パリで、お父さんやお母さんに会えるかと思うと、とても嬉しい。
五十嵐さんってフランスのことも詳しいんだよ。パリのリヨン駅の前でおいしいムール貝のメニューがあって、お父さんの大好きなワインを飲めるところとか、セーヌ川の真ん中にあって、自由の女神像まで続くすてきな散歩道、白鳥の小径とか、カルチェ・ラタンの串焼きがおいしいとか。お父さん、一緒に行こうね。早く会いたいな。

■2003年9月1日
もうお父さんとお母さんは、今頃は飛行機の中かな?パリでの五日間、すごく、すごく、すごく楽しかった。
パリでの待ち合わせのホテルでお父さん、お母さんが来るのを待っているとき、早く会いたくて会いたくて胸が詰まりそうだったよ。
顔を見た瞬間、本当に泣いてしまいそうだった。でも泣き顔を見せたくなかったから、お父さん、お母さんが部屋に行っている間、ロビーのトイレに行ったの。のぞみ、一人で大泣きしていたんだ。

今までどれだけ愛され、育てられてきたかが、本当によくわかったよ。そして今、また離れなければいけないと思うと、心が締め付けられる。
自分から生意気言って、日本を出たくせに、自分勝手でごめんね。私は、いつまでも親離れできなそうだよ。

パリではたくさんのところへ行ったね。レストランに入って、トラブルもあったけど、それも良い思い出だよね。
今まで四ヶ月間旅をしてきて、お父さん、お母さんといたこの五日間がいちばん幸せだった。一緒にいた時間全てが私の中では大切だったよ。

付け足しになるけど、バック購入や食料、お菓子、小物など本当にありがとう。お菓子の量がすごく多くてビックリしたけど、私のことを考えて、好きなものばかり持ってきてくれたのがわかった。
ありがとう、ありがとう、本当にありがとう、母さん。バックなどもすごく探して、本当に最良のものを選んでくれたんだよね。本当に使いやすくて、最高です。

海外で人と出会い、友達になった人と別れ、一人になったとき、淋しいと思って孤独を味わったけれど、今は私は一人ではないんだって思える。
お父さん、お母さんの一生懸命さや心配してくれている気持ち、全てが私の心の中にあるから。
急に日本に帰ろうと思ったこともあったけど、自分で決めた道、もう少し諦めないでがんばってみるね。
たくさんの心配をかけさせてしまうけれど、来年まで待ってください。

私は、お父さん、お母さんの子どもに生まれて幸せです。生きることの素晴らしさ、たくさんの経験を与えてくれてありがとう。
では、東京まで気をつけて帰ってね。
のぞみより

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「祈り」を込めて  森泉 由美子  
■無力を感じた日々
私はマザー・テレサの存在を知ってからというもの、その生き方全てにどうしようもなく心が魅かれていった。

マザーが生涯貫き通した活動、地上最悪の居住環境と言われるコルカタのスラムで、貧しい人々より更に貧しい位置に自らの身を置き、彼らを神と見て仕えるという姿勢、それは私が進もうとしている福祉の原点、それ以上に生き方の原点であると思ったからだ。
マザーの示す生き方の姿勢と、発せられる一言一言は、私が人に触れていくとき、特に実習やボランティア活動の実践の際に、重要なキー・ワードになった。
また、マザーは人間にとって最大の不幸は、貧しさや病ではなく、むしろその事によって見捨てられ、自分は誰からも必要とされていないのだと感じる孤独である、と言われる。人を孤独のままに死なせてはいけない、人として尊い死に方の出来る施設を、と考えて造られたのが『死を待つ人の家』だと思う。

私はここに来る前、居場所のない孤独、誰からも必要とされていないという恐怖にも近い不安、そしてそこから抜け出した時の言いようのない幸福感、全身から涌きだす暖かさを体験したことがあった。
そして私は、もう一度マザーの元で福祉の原点を学びたいと思い、今回の旅を決意したのである。

『インド心の旅』には、それぞれの思いを抱いてたくさんの人が参加していた。

マザー・テレサが創立した修遣会、神の愛の宣教者会の本部(通称マザー・ハウス)に出向き、マザーの墓前で両手を合わせた。
私をここまで導いて下さったマザーへの感謝、そして様々な思いが交錯して、涙が止まらなくなってしまった。緊張感でいっぱいだった私が、急に安心感に包まれたからかもしれない。
祈りのなんたるかも分かっていなかった私にとって、祈りによって涙が溢れだすことは驚きであった。そしてこのことは祈りを深く考えるきっかけになった。

『死を待つ人の家』は、家族に見捨てられ、路上に棄てられた半死の人々を収容する施設だ。
1952年に開設されたという。栄養失調でガリガリに痩せ衰え、身体中の腐敗した傷からはうじ虫が這いだし、素人目にも死が近いことを感じさせる人々が毎日運び込まれる。
全部で140床ほどあるベッドは常に満杯だ。中には介抱のかいあって再び路上生活に戻る方や、他の施設に移れるようになる方もいるが、私はたくさんの方が亡くなっていくのに出会った。
ここでの仕事は崩れかけた患者の体を丁寧に洗うこと、食事介助、汚物にまみれた衣服やシーツの洗濯、掃除、ベッドの消毒、排泄介助、そして患者の手を握り、耳を傾け、孤独を和らげることである。

様々な決意を込めて開始したボランティアであったが、私は無力さばかりを感じる日々が続いた。目の前に立ちはだかる言葉の壁、患者さんが何を欲しているのかも分からない。また、洗濯中に衣服から出てくる汚物を見て逃げ出したくなったこともあった。患者さんの崩れ落ちた皮膚や、痩せ衰えた体から目を背けたくなったときもあった。また、そんな自分を責めたりもした。
日本で何不自由なく生活してきた私は、貧しさと、それによって生み出される現実に初めて直面し、貧しさはなんて残酷なのだろうと感じてしまっていた。

■慰められて
私は日本に帰る場所がある、彼らはどこに帰る場所があるんだろうかと思うと、ひたすら自分の無力さを心の底から詫びた。後になって、私が感じた事は日本で生活する私自身のエゴと、憐れみであった事に気付く。

マザーテレサの施設のボランティアも、数日経つと、やっと一日の流れがわかってきた。
始めたどたどしかった患者さんの排泄介助や入浴介助も、スムーズに行うことができるようになってきた。心に少し余裕もでてきて、ひとつひとつの作業、特に患者の方に接することに思いを込めることができるようになってきた。そして、それまで、混乱と葛藤で一杯だった私の心が、そういう触れ合いの中で癒されていくのを感じていた。

毎日、外を指さして泣いている同年代の女の子がいた。「外に出たいのかな。大切な人に会いたいのかな」と、会いたい人に会えない彼女の辛さを思ったとき、思わず私の方が泣いてしまった。そのとき急に、その子が笑顔になって、手で私の涙を拭って抱きしめてくれた。ボランティアしているつもりの私は、こうして彼女たちにボランティアされている毎日だった。

■聖地巡礼の旅
また、この旅は深く祈りについて考える旅だった。自分は「祈り」ってお願い事かと思っていた。今まで自分のためにしか祈ったことのない私が、離れている家族や友達の健康、寝込んでいるボランティア仲間のために祈ることが出来た。
そうして祈っていると、確かに混乱した心に訪れる暖かな何かを感じ始めた。
生死をさまよう患者さんの心が愛で満たされるように、街の子ども達の瞳に輝きが戻るように、と祈ることしか出来ない自分がいたことも事実である。祈りとは何なのか学びたいと強く思った。

ちょうどそんな時であった。釈尊の聖地巡礼に出かけた。一緒に参加したすばらしいメンバーと一緒に、ベナレス、プッダガヤ、ラージギールと回った。
それぞれの地で、美しい建造物や遺跡と、そこに施された芸術を見、それらに向かって様々な方法で祈りを捧げる人々の姿に心を打たれた。
私も自分なりの方法で祈り、考えた。これらの壮大な建築物や様々な芸術も、マザーの活動によって世界中に広がっていく穴きな輪も、同じく信仰によって生み出されたものだ。そして信仰は祈りによって生み出される。祈りは大きな何かを生み出す力なのだ。人々の祈りは、そこから涌きだす活動によって、必ず形になっていく。
これまで宗教や信仰とは殆ど無縁であった私が、カルカッタに来てからは、様々な迷いの中で絶えずマザーに語りかけていたような気がする。

自分の無力さを詫び、どうすればいいのですかと語りかけた。マザーは確かに私を見ていてくれたような気がする。それが日々の原動力になっていた。

信仰とはこういうものなのかもしれない。そして、特定の宗教を持たない人々の中にも、心の奥底には良心や魂があり、それを神と例えることができ、その魂の声を聞くことが信仰ではないだろうか。
その声を闘き入れ、魂が喜ぶ生き方が出来るようになった時、人は本当の意味で生き生きできる。それが芸術や大きな輪に繁がっていくのだと思えた。

また、五十嵐さんから、「祈りとは、ただ思い出すだけでいい」という童話、「青い鳥」の中に出てくる言葉を教えてもらった。確かこんな話しだった。

  『幸せの青い鳥』
幸せの青い鳥を捜し求めて思い出の国へやって来たチルチルとミチルは、亡くなったはずのお祖父さんとお祖母さんに出会う。
揺り椅子にかけて、祖父さんとお祖母さんは、朝から晩までコックリコックリ居眠りをしている。声をかけるが、目を覚ましてくれない。
 悲しくなったチルチルとミチルは、幼い時にお祖父さんとお祖母さんに愛されたことをなつかしく思い出していった。そうしたら二人は目を覚ましていく。そしてお祖父さんは言う。
 「私たちのことを思い出してくれてありがとう。この国ではね、地上の人たちが思い出してくれた時だけ私たちは目が覚め、起きて動くことができるんだよ。お前たちが私たちのことを忘れて、ずいぶんになるねえ」。
チルチルはお祖父さんにたずねる。「ただ思い出すだけでいいの」。
「そうだよ。そのくらいのこともわからないのかい。地上で生きている者は。みんながもう少しお祈りをしてくれりゃあねえ。」
「父さんはお祈りなんかよせって。くだらないって」と、チルチルが言った。
「馬鹿だねえ。お祈りすることは、思い出すことだよ」。

とっても良い話だと思った。私はその話を聞いて、人間は祈りによって、なぜ心が穏やかになるのか分かったような気がした。
人は決して一人では生きていけない。必ずたくさんの人々に支えられて生きている。家族や友達、亡くなった祖父母を思い出すと、自分がいかにたくさんの愛に包まれて生きてきたかがわかる。自分にはただ「ありがとう」と言うしかない。
「祈り」って「感謝」だと思った。

■子ども達との出会い
『聖地巡礼の旅』で自分にとって、大きな体験があった。
一つはナーランダ仏教大学跡で、たくさん集まっていた物乞いの子ども達にねだられて、その一人に、お菓子をあげてしまった時のことだ。
その途端子ども達の目の色が変わり、一気に20人くらいに囲まれてしまった。私は逃げるようにしてその場を去った。
皮らの苦しみに歪んだ表情が頭に焼きついて、深い後悔に襲われた。そのときマザーの「自分が傷つくまで与えなさい」という言葉を思い出した。私はたいして食べたくもない、余っているお菓子をあげた。あげたお菓子には何も思いは込められていない。愛がないものを人にあげても、人は喜ばない。自分の心が悲しいだけだった。

そして二つ目は、ガンジス河の沐浴場で出会った子ども達との触れ合いだった。
その子たちの瞳はキラキラと澄んでいた。人なつっこくて、太陽のような子ども達と飛ぴ回って遊んだことで、私はとても癒された。
その子ども達は私が帰る時も遠くまで来て、私が教えた「こんにちは」という日本語を、大声で叫ぴながら見送ってくれた。

この二つの出来事により、私は単純に子ども達の笑顔が見たかったのだということに気付いた。それにあの子ども達は、私と一緒の時間を共有したかったのだ。もう「ありがとう」しかない。
『インド心の旅』で少しずつ、自分の中で何かが変わっていった。


■言葉はなくてもいい
聖地巡礼からコルカタに戻った私は、患者さんと接するときも本当に喜びだった。患者さんの一人ひとりがかけがえのない命だった。私を見ると表情を和らげてくれるみんながが愛しくてたまらなかった。
歌がすきなおばあさんがいた。触ったら折れてしまいそうな体を、全部マッサージしてあげて、一緒に歌を唱い、体が硬直している彼女のリハビリをして、一体になっている自分が嬉しかった。

ある日、結核を患う患者さんが運ばれてきた。ガリガリに痩せ、苦しそうに肩で呼吸をし、乾いた咳をしていた。それにはやりの赤目の病気を持っていて、殆ど目を開かない。
私も結核が恐くなかったわけではない。しかし、そんなことはどうでもよくなっていた。私は彼女の生命に触れていたいと思った。
ほとんど固形物を飲み込む力もなかったのだが、シスターから渡された薬を、「どうかお願いだから飲んで。」と祈りながら、時間をかけて飲んでもらった。毎日真剣にマッサージをし、体を拭き、手を握った。殆ど目を開けることのなかったその女性は、私の顔を覚えてくださったようで、私が傍にいくと目をうっすらと開け、表情を和らげてくれるようになった。
そしてボランティアの最後の日、いつものようにマッサージをしていると、目を開け、私の腰に手を回し、強く抱き寄せてくれた。嬉しくて涙が出た。
彼女もまた、ベンガル語で何かを語りながら涙を流していた。ボランティアの始めの頃、言葉が通じないことで縮こまっていた自分を思い出した。言葉が通じなくても心は通じると今は思える。

■幸せって何?
 ボランティアの合間に休日を利用して、友人とともに地下鉄と徒歩で、40分位のところにあるフーグリー河に行った。私は途中でマニキュアを買い、遊んでいる子ども達に塗ってあげた。これが大人気で、たちまち30人位の子供たちが集まってきた。
お互いの爪にマニキュアを塗り合って遊ぴ、男の子まで爪を出してきたことにみんなで大笑いし、はしゃぎ回った。私がクッキーの袋を開けて一人の子に手渡すと、その子は私たちを含め、全員に均等に配って廻った。

3才位の小さな男の子が、まだもらっていない子がいる事をちゃんと覚えていた。そしてもう一人、みんながクッキーを食べている中で、自分だけ、大事に両手に包んで決して口をつけない男の子がいた。
自分の推測だけど、「この子は自分の兄弟に持っていきたいのだ」と、思った。
まだ私の中に、貧しさは残酷だという気持ちが残っていたにも関わらず、分け合うことを知っている子どもを見て「この子たちは私よりもずっと幸せだ」と思った。

豊かな日本に生まれて、私はこんな事にも気づかないでいたのだ。コルカタを去る日、マザー・テレサの墓前で両手を合わせたら、ぼろぼろと泣けてきた。あの小さな子どもに教えてもらったことを、絶対日本に持って帰ろうと思った。日本に帰りたくない気持ちでいっぱいだった。
■帰国して
たくさんの決意をもって日本に帰ったはずの私は、待っていてくれた人達に会ってほっとしたのもつかの間、しばらく激しい虚無感に襲われる日々を過ごした。何をどこから始めていいのかも分からなくなってしまった。

今、こうして私は何不自由ない生活を再び日本で始め、腰を落ちつかせてしまっている自分が嫌でたまらなかった。あの充実した日々を知ってしまったことに後悔すら覚えた。
一時期自分を責めてしまって、マザーに語りかけることが出来ずに写真も伏せてしまった。自分が求め続けていた生命の世界にたどり着けないでいる自分が口惜しかった。

勇気を出して伏せた写真を元に戻し、どうすればいいのですかと呼びかけた。落ち込んでいる私に一つのメッセージが届いた。ある先生を通じ、私の大学にマザー・テレサからの言葉があったことを知った。

   親愛なる、立正大学社会福祉学部の学生の皆様
私達の、一人ひとりに向けられた、神のやさしい愛にたいして、感謝しましょう。神にとって、私達は、かけがえのないものなのです。
ですから、私達が出会うすぺての人々に対して、幸せな微笑みと、優しい言葉と、さしのべる手を使って「神の愛の運ぴ手」となっていきましょう。
どうぞ忘れないでください。あなたを必要とする人にあなたが為すことはすべて、神に対して為すことです。何故なら、神はこうおっしゃっています。「あなたが、私の最も小さい兄弟に為すことはすべて私に為すことです」祈りましょう。
神の恵みがありますように。
マザー・テレサ

私はこのメッセージに、何度も励まされ、勇気を頂いた。あの時小さな男の子に教えてもらったことを思い起こし、いつも感謝や思いやりを忘れずにいよう。ゆっくり、着実にやっていこう、と思えるようになった。

それからというもの、今までは自然に通りすぎてしまっていた事が、キラキラと新鮮に見えてきた。小さなことがこれほど暖かくて、嬉しいものかと、驚くことの出来る毎日に変わっていった。
今回の旅で私が学ばせていただいたたくさんのことを、この日本で日々表現しながら生きていくことは決して容易ではない。しかし、だからこそ、日々努力を続けていきたいと思っている。

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神様がくれた生き方  沢井 裕
■旅は出会い
私は先日、NPO法人レインポー国際協会のスタディー・ツアーに参加させてもらった。初めてのインド、どんな世界が待ち受けているか楽しみだった。私は二十歳の大学生である。裕福な家庭に生まれ、欲しいものは何でも手に入り、それがまるで当然であるかのような生活をしてきた。
私は利己的な自分に嫌気がさし、人を傷つけることで自分を傷つけてきたと思う。杜会で生きることは妥協することなんだ、と無気力になりかけていた頃私はこの旅に出会った。

旅は出会いだと思った。同じ飛行機で、最初に会ったのはレインボー国際協会で監事をなさっている安野啓義税理士であった。私はそれまで会計土を目指していたので、出会いに感謝し彼から何かをつかもうと思った。
彼は私の話を真剣に聞いてくれた。そして税理士の彼が教えてくれたのは、ビジネスのノウハウではなく、人との触れ合いであった。彼はビジネスの世界ではたくさんの経験や実練があるにもかかわらず、私のような若者からも何かを学ぼうという謙虚な婆勢を感じた。このような尊敬すべき人がレインボー・ホームにいることで私はある種の安堵を感じた。

■レインボー・ホームの子ども達
何よりも嬉しかったのはレインボー・ホームの子ども達との出会いである。正直、私はそこまで子どもを好きではなかった。最初は言葉が通じず、どうやって接したらよいのか迷った。
できることからやってみようと思い、私は彼らと体で触れ合うことにした。親の愛情がほとんどなかった子ども達である。できるだけ抱きしめてあげた。

こうして私は小さな友人たちと接していくうちに、様々なものが見えてきた。この子ども達は一見、明るく振る舞っているが、それは外から見てもわからない。あたかも自分の病気を隠して、家族の前では病気でない振りをしている病人のように見えた。そんなことすら気がつかなかったことも、私の目が曇っていたのかもしれない。
レインボー・ホームにピンキーという女の子がいた。最初レインポー・ホームに来たときには皆の前で注目されようと、なまめかしく踊っていたそうである。きっと娼婦のお母さんの仕草を真似していたのであろう。どんなにこの子の心は傷ついていることか。
「もう安心していいよ。私はあなたを愛しているよ」と、伝えたくて、できる限り彼女と接した。
ピンキーは笑顔で私と接してくれた。しかしその笑顔が本当の彼女の姿であったのか、私にはわからない。彼女はそう見れぱまだ心を閉ざし、淋しい目をするときがあった。

ふっと、日本にいる母のことを想った。今でも私が家を出るとき、どんなに忙しくてもドアのところまで見送ってくれる。「行ってらっしゃい」と言って。この一言に込められた愛を思い出した。
私はどれだけピンキーにそのような愛の言葉、ぬくもりを与えることができたのだろうか。

■人生の目的
コルカタを去る最後の日、五十嵐さんと真剣に話をする機会をいただいた。

私は若い頃「何のために自分はこの世に生まれてきたのか」わからずに病んでいた。マザー・テレサと出会ってやっと気がついた。人の生命を愛することで、自分が幸せになれることを。
私たちの上の世代に、愛する子ども達のために、戦争に負けた日本を必死に立て直してきた人達がいることを忘れてはならない。
人間は人の生命のために生きていくときに、最も自分が輝く、この生命の原理を次の世代に伝えたくて私はこのレインボー・ホームを作った。
今度は、あなた方が次の世代に自分の生き様で、伝えていってほしい。

私は今目本に婦る途中でこれを書かせていただいている。「日本は良い国だね」と言われるような日本を作っていきたい。そのためには国際弁護士になろうかと思う。
私はごうまんでもなく、他者のために生きていきたい。それは自分のためである。みんなが他者のために生きたら、それは素晴らしい日本を作ることにつながるのだから。
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